旧石器時代 |
採集や狩によって生活する |
縄文時代 |
稲作、金属器の使用が始まる |
弥生時代 |
57年
倭の奴国の王が後漢に使いを送る
239年
邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送る |
古墳時代 |
大和政権の統一進む
百済から仏像・経典が送られる |
飛鳥時代 |
604年
十七条の憲法制定
645年
大化の改新
701年
大宝律令 |
奈良時代 |
710年
都を奈良(平城京)に移す
741年
中泉に国府が置かれる
国分寺建立の詔
遠江国分寺完成
752年
大仏開眼
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平安時代 |
見付に国府を移す
784年
都を京都(平安京)に移す
819年
遠江分寺が火災に遭う
1016年
藤原道長が摂政となる
1086年
白河上皇の院政が始まる
1167年
平清盛が太政大臣となる
1185年
平氏が滅びる
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鎌倉時代 |
1186年
源頼朝、国分寺・国分尼寺の復興を命令する
1191年
幕府は国司に国分寺・国分尼寺の修理を命令する
1192年
源頼朝が征夷大将軍となる
1221年
承久の乱
1232年
御成敗式目
1333年
鎌倉幕府が滅びる
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南北朝時代
室町時代
戦国時代 |
1338年
足利尊氏が征夷大将軍になる
1378年
足利義満が幕府を室町に移す |
1467年
応仁の乱 |
1522年
見付に住んでいた堀越氏延が国分寺に鰐口(お堂の軒下に吊す鳴り物)を寄付
1543年
ポルトガル人が鉄砲を伝える
1549年
キリスト教の伝来(ザビエル)
1573年
室町幕府が滅びる |
安土桃山時代 |
1590年
豊臣秀吉が全国を統一する
1600年
関ヶ原の戦い
1603年
徳川家康が征夷大将軍となる |
江戸時代 |
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小泉 淳 作画(2002年)聖武天皇御遠忌1250年
を記念して制作、東大寺に奉納されたもの |
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聖武天皇(しょうむてんのう)
大宝元年(701)〜天平勝宝8年(756)
在位:神亀元年 〜 天平勝宝元年
奈良時代:第45代天皇天武天皇の孫、
文武天皇の子として生まれる
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【遠江国分寺】国の特別史跡
国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院。
聖武天皇から
「国分寺建立の詔(みことのり=天皇の命令)」
が出された。
その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)と妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう/法華経)を写経し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、尼寺の名は法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)とすることなどである。
寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。
なお聖武天皇は、この詔の以前から、天平9年(737年)には国ごとに造像と大般若経を写すこと、天平12年(740年)には法華経10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。
736年から天然痘が北九州より発生し、全国へ蔓延し、都にも流行し、平城京の役人100人も発病した。
そして、聖武天皇の親戚となる藤原不比等の子・4人が病魔に襲われ死亡した。
更に、740年には、藤原広嗣が、大宰府より挙兵し、都に対して謀反を起こした。まさに、人心騒乱の時期であった。
これらを鎮める為にも仏教の力に頼り、741年、聖武天皇の詔により、全国一斉に68ヶ所の国府に国分寺と国分尼寺を建立するよう発布された。
多くの場合、国府地域内、又は、その周辺に置かれ、国庁とともに、その国の最大の建築物であった。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられた。
遠江の国にも20年前後を費やし、国分寺が建立された。古代日本国家にとっての一大事業であった。
国分寺は、当時衰退していた仏教を再興し、国を再構築するために、聖武天皇が国家再生の詔を発せられ、政教一致の国造りの願いを込めた官営の寺院であり、僧侶を養成するための施設です。ここから多くの僧侶が輩出され、仏教による国家再生が行われました。
しかし、律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れたが、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もある。
なお、建物等は焼失しているが、かつての国分寺跡地近くの寺や公共施設「資料館」などで、国分寺の遺品を保存している所がある。
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THE SITE OF TOTOMI KOKUBUNNJI TEMPLE
1250 years ago during the Nara period (741A.D.) .
Emperor Shoumu ordered about sixty Kokubunniji Temples to be built throughout
Japan.
They are known for their Buddhist culture. According to Buddhism, the Emperor
wanted to make a peaceful society.
The tempes were built in pairs : one was for the training of men, and the
other was for women.
As this particular Totomi Kokubunji Temple was renowed for its splendor,
in 1951 it was the first of its kind to be excavated in all Japan. In 1952
it was recognized as a special national historical site (equal to a national
treasure).
After the excavation, within the main areas of the temple the following
sites were discovered lined up from the southernmost point : the Nandai
Mon (Large Southern Gate), the Chu Mon (Middle Gate), the Kondo (Central
Hall), and the Kodo (Lecture Hall).
A tower was also discovered on the western side of a corridor which surrounded the Kondo and the Chu Mon.
Also, a wall made of soil which enclosed all of these structures was found.
Between 1968 and 1970 this area was cleared and the original foundation
was restored.
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