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国分尼寺「法華滅罪之寺」

国分尼寺 「法華滅罪之寺」
          ほっ け めつ ざい の てら

国分尼寺は、聖武天皇の命令により、国分寺と共に各国に建立されました。このお寺は、国分寺と同じく国の税金で運営する官営(国立)のお寺でした。
そこには、女性のお坊さんである尼を10人置くことと、法華経や金光明最勝王経(こん こう みょう さい しょう おう きょう)というお経を備えることが決められていました。

遠江国分尼寺は、遠江国分寺から北へ400mの場所に建てられました。発掘調査によって、金堂や講堂の跡が見つかっており、国分寺や金堂の中心線上にあるので、国分寺と国分尼寺が計画的に建てられていたことが分かります。

分寺があった場所は住宅地になっていて、そこに国分尼寺があったことは表示されていませんが、地下には遺跡が残っています。

国分僧寺跡北側の本町地内において、二つの基壇が確認され、尼寺の存在が確定的となりました。
基壇の大きさは、講堂跡は南北17m、東西28m、金堂跡は南北22m、東西34m程度と推定されます。
その後、度重なる調査の結果、尼寺の伽藍地の西辺は、僧寺の延長線上であったと考えられています。
これら建物の南北の中心線は国分僧寺の建物の中心線上にあり、計画的な配置がなされていたことが分かります。

国分僧寺

従来、国分僧寺の範囲とされた以外の場所から遺構が見つかっています。磐田南高校地内などで建物跡、また「土塁」とされた高まりの西側では、瓦が大量に入った大溝が発見されています。

このため、国分僧寺の範囲は、昭和26年の調査の推定よりも広く、南北253m、東西180mあったと考えられています。

「土塁」は、築地塀<つきじべい>(瓦屋根のある土塀)であったと考えられます。
また、伽藍地<がらんち>の南東隅で、幢竿<どうかん>
(儀式の際に幟旗を立てるための竿)の位置が確認されました。 



遠江国分寺と国分尼寺の位置







@ 国分尼寺金堂跡基壇

土を交互に積み重ねた「版築」
が確認された






A 国分尼寺の講堂跡

国分尼寺(こくぶんにじ)は国分寺と共に、当時の国毎に造られました。 遠江では国分寺と南北に並ぶように建てられていました。 発掘調査では版築と呼ばれる、土を固く叩き締めた基壇の跡が発見されています。




古代から豊かな磐田だからこそ
人が住み、国分寺も建てられた



 
奈良時代の磐田市周辺の地形を推定復元したもの、磐田には台地が広がり、風光明媚で気候も温暖で、古くから人が住み、栄えていました。

遠江国分寺の南東に広がる大之浦に舟が行き来して、物資が運搬されていたと考えられています。


遠江国分寺以前のお寺

日本に仏教が伝わった6世紀頃から有力者たちは権力の証としてお寺を造るようになります。
 
7世紀には、磐田市内でも寺谷・中泉・鎌田にお寺が建てられていたことが分かっています。

その中でも中泉にあった大宝院廃寺は、出土したものや建物跡から、遠江最古のお寺であると考えられています。

国府に近い場所にあることから、国府と関係の深いお寺かもしれません。遠江国分寺が建てられる前から、お寺を建てるほどの財力と権力を持った豪族が磐田に住み、彼らがその後の国分寺建立に深く関わっていたと考えられています。


国分寺跡から出土したもの